昭和43年8月14日 夜の御理解
信心が有難いものだと、ま、それぞれに、その有難いという、その程度は違おうけれども、ここのところまでは、有難いものにしておかなければならんという事を、信心を頂いておりましても、んー、やはり、苦しいこともありゃ、楽しいこともある。あー、いらいらする事もある。不平不足が出る時もある。けれども、その苦しいときでも、有難い楽しいときでも、その、直ぐその、おー、次の瞬間にはね、信心を頂いておると言う事が、有難いという実感が、湧いてくるようなところまで、おかげを頂きたい。それで、例えば、苦しいことがあってもである。ね。または、自分の思うようにならない時があってもである。ね。もう、ほんとにもう、どうしてこげん自分の思うようにならんだろうかと思いよる時でも、次の瞬間、自分の信心と言うものをこう、見極めるだけの、ゆとりというか、そういうものを、おー、感じれると。ほんとにあの、信心ちゃ有難いなー、そして、その、思うようにならんとか、困ったとかと言う事が、返って、反対に有難うなってくるというようなところまで、信心を、おー、進めておきたい。思うようにならんから、と言うて、思うようにならん事だーけに、愚痴、不足を言うておるようなことでは、信心が、そういう場合には役に立っていないわけですから、ね。
今日も、私、午後、おー、ちょっとあの、炊事場の向こう側に下りてみたら、まあ何、昨日、大掃除をしたというのに、どこを大掃除したとじゃろかと思うように、もう、乱雑な、言うなら、ろくそな事である。してもう、こういうような道具を、こんなところに置いときゃ、こらもう、腐ってしまうことは分るのに、こういう事になる。ほんとにあの、お広前が、あー、乱雑である、ろくそにあるという事は、あー、他所の、信心のない家庭ですら、やはりあの、きちっと整頓が出来ておるのに、人に教えを説かなければならない教会において、ね。お広前だけは、きちっとしても、勝手に下がったら、乱雑であったり、また、その向こうに行ったら、こんなものが、こんなお粗末になっておるといったような事では、ほんとにあの、教会としての、おかげを頂いておるのに、神様にとって、相すまんことである。そこで、こげなことしてから、んー、というてまあ、あー、片付けないかとこう、けども、そういう時にですね、「はいすみません」とか言うてその、直ぐこう、片付ければ、まあ、それで良いのですけれども、そげん言うたっちゃ、とてもそげん、手がなかなか届かない、というような時に、まあ、こちらの気持ちの中にですね、もう、その次の瞬間に、はー、ほんなこて、私の信心がろくそなかから、こういう端々のところが、ね。お広前のところは、まあ、きちっとしておっても、見かけだけは、きちっとしておっても、目に見えないところが、ろくそだからこういう事だという事を、もう自分自身の心の中に、もうその、その反射的に感じれれる。ほんと私は、何時もそれを思うんですね。えー、ですから私は、直ぐ、あの、奉仕着に着替えました。まあその、まだ時間、四時の御祈念には、随分時間があったですけれども、それで、四時の御祈念まで奉仕させて貰うて、四時の御祈念を頂かせてもらったんですけれどもね。えー、ほんとにその、まあ、そん時にですね、あの、自分を取り戻させてもろうたという有難さ。もうそこが、散らかっておったとか、粗末になっておったという事以上に、有難いものを感じる。そこにね、その、信心の有難さというものを感じます。もちろん、私は、えー、四時半の御祈念を終わっておりましたら、あー、綺麗に整頓がしてございました。というようにですね、その、それが整頓がしてなかっても、いよいよ、そこんとこが、自分の信心を、詫びていくと言うか、ね。あの、それが、あれのせいとか、人のせいではなくて、自分信心のせいだと、こう頂けれるという事が有難い。なら、これは、例えばほんなら、まあ、ちょっとした、思うようにならないということなんですけれども、えー、苦しいこと、楽しいこと、ね。様々な時にですね、その次の瞬間に、信心頂いておるということが、なんと有難いことであろうか。こういう難儀な中に、お取次ぎを頂けば安心が出来ると。今日も、午後から、夫婦のある方が、もう、大変な問題で、まあ、駆け込むようにしてお参りになられた。私、下がっておりましたから、えー、裏のほうへ見えましたから、まあ、控えのほうで、お会いしましょうと言うて、まあ、控えでお話を聞かせてもらえば貰うほど、本当にそれは、逆上するごと、腹も立とう、どうにも、これがおかげと分っておるけども、どうにも仕様がない。自分の心を持て余して、夫婦で、まあ、ここへ見えられたわけなんですね。そして、お取次ぎを頂いてから、お話を頂かせていただきよるうちにです。もう、大体は、これがおかげの元になる、これが、こういう時こそが徳を受ける時だと、日頃、しっかり頂いておりますから、もう、お話を頂けば、もう、いわば、歯がゆい、苦しい、いわば、涙が有難涙に変わるほどに、おかげを頂いて帰られたんですけどもね。次の瞬間には、苦しい涙が有難涙に変わられるというような、それが有難い。それが、私は、信心の有難さと、こう思うのです。ね。どんな事であっても、お取次ぎを頂いたら、次には、喜びが、安心が頂けれる。ね。そういう信心を頂いておるということが有難いという。そこまでは信心を頂いておきたい。ね。もうほんとに、残念なこと、歯がゆい事はある。もう、自分の思うようにならん。それが、いつまでも自分の心のなかに、しこりのように残って、そして、それを、おー、ぶつぶつ言わねばならんとか、喧しゅう言わねばならんとか、あー、というような事では。信心を頂いておる値打ちがない。ね。どうぞ一つ、お互い、様々な時があるのですから、様々な時のあった次の瞬間には、信心を頂いておるという事が有難いなー、というふうに、分らせて頂けるような信心を頂きたいと思うですね。どうぞ。
中村良一
2005年4月24日